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信仰と歴史が息づく
​長崎・五島列島

長崎と五島列島は、16世紀にキリスト教が伝えられて以来、信仰と共に歩んできた地です。禁教期には多くの信徒が「潜伏キリシタン」として静かに祈りを守り続け、その証しは今も地域の文化と風景に息づいています。五島列島だけでも50を超える教会が点在し、その多くが世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に含まれています。青い海と緑豊かな自然に囲まれた島々に建つ教会群は、信仰の歩みを物語る場であり、訪れる人々の心に深い感銘を与えます。

歴史と信仰

16世紀半ば、フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が日本に伝えられると、長崎や五島の地でも信仰は急速に広まりました。大名の受洗や教会建設を通じ、多くの人々が洗礼を受け、共同体を築いていきます。

しかし、江戸幕府による禁教令により、信徒たちは厳しい迫害を受けました。それでも人々は信仰を捨てず、

「潜伏キリシタン」として200年以上にわたり祈りを守り続けました。聖職者も聖堂もない中で、祈りの言葉や習慣を家族や集落で密かに受け継いだのです。

19世紀に禁教が解かれると、隠れていた信徒たちは再び信仰を告白し、各地に教会を建てました。今日、長崎市内や五島列島には100を超える教会が点在し、その多くは世界遺産にも登録されています。それぞれの教会は、迫害と忍耐を経て守られた信仰の証しであり、今も地域の人々の祈りと共にあります。

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伝来と受容

キリスト教がもたらされ、

信仰が根付いた時代

 

(16世紀半ば〜16世紀末)

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禁教と潜伏

厳しい迫害の中で、

祈りを守り続けた時代

(17世紀初頭〜19世紀半ば)

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信仰再起

潜伏の時代を終え、

祈りが再び公に捧げられた時代

(19世紀後半〜20世紀)

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崩れと殉教

現代の日本では、憲法第20条で信教の自由が保障されています。

どんな宗教を信じようと、また信教を持たずとも、それを理由に

差別や迫害を受けることはありません。

しかし禁教の時代とは、ただ「キリスト教徒である」という理由だけで迫害を受け、命を落とす人々がいた時代でした。布教の出発点であった長崎や五島では、厳しい迫害の中でも隠れて祈りを守っていた信徒たちが発見され摘発・検挙される「崩れ」が相次ぎ、その中で拷問や処刑による「殉教」も数多く起こりました。

こうした出来事は、禁教という厳しい時代の中でも信仰を守り抜き、人が自らの信念のためにいかに苦難を耐え抜いたかを物語っています。これらの地では、歴史の重みと祈りの足跡を辿ることができます。

代表的なキリスト教史 概略

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1797
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1863
1865
1867
1868
1889
フランシスコ・ザビエルが鹿児島へ上陸。
フランシスコ・ザビエルが平戸を訪問。
少年遣欧使節をローマへ派遣。本能寺の変にて織田信長没。
豊臣秀吉がバテレン追放令を出す。
西坂で26聖人殉教(1597/2/5)
徳川家康が禁教令を発布、宣教師国外追放へ。
長崎の教会が全て破壊される。
元和の大殉教、西坂で宣教師・信徒55人が殉教。
長崎で「絵踏み」開始。
最後の潜伏司祭 小西マンショ殉教。
大村藩郡村でキリシタン逮捕(郡崩れ)
浦上一番崩れ
大村藩外海地方の潜伏キリシタン五島へ移住。
天草崩れ
浦上三番崩れ
日米修好通商条約 締結
プチジャン神父 長崎へ。
大浦天主堂献堂式と信徒発見
浦上四番崩れ 始まる
五島のキリシタン弾圧 始まる
大日本帝国憲法で信教の自由が保障される。

​出典と参考:『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド 長崎文献者編 カトリック長崎大司教区監修』、長崎文献社

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西坂殉教地
​二十六聖人殉教

1597年、豊臣秀吉の命令によって、長崎・西坂の丘で26人のカトリック信者が処刑されました。日本で、キリスト教徒であることを理由に最高権力者の指令にて処刑が行われたのは、初めてのことでした。後に聖人に列せられたため「日本二十六聖人」と呼ばれています。​最年少は12歳のルドビコ茨木でした

責任者であった長崎奉行の寺沢半三郎は、たった12歳の彼を哀れに思い、「キリシタンの教えを棄てればお前の命を助けてやる」と持ちかけたが、ルドビコは「(この世の)つかの間の命と(天国の)永遠の命を取り替えることはできない」と言い、毅然として寺沢の申し出を断ったといわれています。

長崎の教会と巡礼地

長崎は、日本におけるキリスト教の歴史を象徴する地です。16世紀の宣教によって信仰が芽生えましたが、禁教令により数えきれない信徒が迫害を受け、命を落としました。1597年の二十六聖人殉教、1622年の元和の大殉教、浦上の崩れなどはその証です。

それでも信仰は絶えることなく守られ、1865年の「信徒発見」によって再び光を取り戻しました。今日、長崎に点在する教会や殉教地は、信仰を貫いた人々の歩みを今に伝えています。

五島列島の教会と巡礼地

五島列島には約50の教会が点在し、その多くは小さな漁村や島の集落に寄り添うように建てられています。禁教の時代を耐え抜いた信徒たちが、信仰の自由を得た後に祈りを込めて築いた教会は、それぞれに異なる物語を伝えています。

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堂崎天主堂

(下五島・福江島)

五島で最初に建てられた本格的な天主堂で、1879年にフランス人宣教師ペルー神父によって建設されました。赤レンガ造りの重厚な外観は、五島における信仰復活の象徴とされています。現在は教会としての役割を終え、キリシタン資料館として開放されており、潜伏時代から復活に至るまでの歴史を伝える貴重な展示が並んでいます。

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楠原教会

(下五島・福江島)

楠原地区は潜伏期に殉教者を出した土地であり、その信仰の証しを今に伝えるのが楠原教会です。現在の建物は20世紀初頭に建てられた木造の美しい教会で、素朴な佇まいの中に潜伏期から続く祈りの歴史を感じることができます。静かな集落に立つこの教会は、信仰を守り抜いた人々の記憶をとどめる巡礼地となっています。

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牢屋の窄殉教記念聖堂

(下五島・五島市玉之浦)

1868年、五島市玉之浦の「牢屋の窄(さこ)」で約200人の潜伏キリシタンが一斉に投獄され、劣悪な環境の中で50人以上が命を落としました。この痛ましい事件を記憶するために建てられたのが「牢屋のさこ殉教記念聖堂」です。聖堂内外には殉教者を追悼する碑が立ち、訪れる人々に信仰を守り抜いた人々の苦しみと祈りを伝えています。

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頭ヶ島教会

(上五島・新上五島町)

五島列島を代表する石造りの教会で、1919年にフランス人宣教師の指導のもとに地元信徒たちの手で完成しました。国の重要文化財に指定され、世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産にも登録されています。島の自然と調和する荘厳な姿は、信仰復活の記念碑ともいえる存在です。

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水ノ浦教会

(下五島・福江島)

水ノ浦教会は五島の信仰復活期に建てられた代表的な教会のひとつで、白亜の壁と尖塔が印象的です。この地ではかつて「水ノ浦の崩れ」と呼ばれる摘発事件が起こり、潜伏していた信徒たちが大きな苦しみに直面しました。今日の教会は、そうした歴史を背負いながらも清らかな祈りの場として地域に根づき、巡礼者を迎えています。

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井持浦教会

(下五島・福江島)

井持浦教会は、五島で最も古い現存する教会のひとつで、フランス人宣教師によって1879年に建てられました。ここには日本で初めてルルドの聖母を祀った「ルルドの洞窟」が造られており、多くの巡礼者が訪れる場所となっています。長崎の潜伏キリシタンが信仰を公にできるようになってから最初に築かれた教会のひとつです。

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旧五輪教会

(上五島・新上五島町)

五島の信仰復活期に建てられた木造教会で、1873年の禁教令撤廃直後に建立されたと伝えられています。簡素な造りながらも、潜伏から解放へと至った信仰の喜びがその姿に表れています。現在は保存のために新しい教会堂が建てられ、旧堂は歴史的建築物として残されています。

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大曽教会

(上五島・新上五島町)

大曽地区に建つ教会で、潜伏時代から信仰を守り続けた人々の共同体により建設されました。海辺にひっそりと佇むその姿は、迫害を耐え抜いた小さな共同体の祈りを今に伝えています。内部は木造の温かみがあり、訪れる人に静かな祈りの時間を与えてくれます。

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